連銀総裁・辞任の衝撃

 2月11日、ユーロの安定性にとって悪いニュースが、欧州を駆け抜けた。ドイツ連邦銀行のアクセル・ヴェーバー総裁が任期半ばにして辞任することを発表したのである。彼は、欧州中央銀行(ECB)の次期総裁になることがほぼ確実視されていた。本稿を書いている2月中旬の時点では、後釜は決まっていない。

 欧州の通貨政策の重鎮が、まるで洋服を脱ぎ捨てるかのように突然総裁の座を投げ出すのは極めて異例である。しかもその辞め方は、連銀総裁という政治的な要職を持つ人物としては、気配りを欠いた物だった。メルケル首相は、ヴェーバー氏をECBの総裁にするために強力に後押ししていた。それにもかかわらず、メルケル氏は辞任の意向をヴェーバー氏から事前に知らされていなかった。このことは、メルケル首相の指導力・影響力の弱さを改めて浮き彫りにするエピソードだ。首相は飼い犬に手を噛まれた心境に違いない。

 ECB総裁はユーロ圏の通貨政策の最高責任者であり、国際的にも影響力のあるポストだ。なぜヴェーバー氏は、そのような要職につく道を自ら閉ざしたのだろうか。その原因は、去年5月のギリシャの公的債務危機の際に、EUECBが示した態度にある。公的債務の額についてEUに嘘の報告をしていたギリシャは、信用格付けを引き下げられた。このためギリシャの国債価格は暴落し、同国政府は国際金融市場でさらにお金を借りることが困難になった。つまりギリシャは破産の瀬戸際に追いつめられたのである。

 この時EUは、「ユーロ圏加盟国は他国の債務の肩代わりをしてはならない」というリスボン条約の規定を破って、ギリシャの破綻を防ぐために巨額の緊急融資を実施した。これだけでも、ユーロの信用性、安定性にとっては重大な背信である。

 さらに経済学者らを驚かせたのは、ECBがギリシャ国債の暴落を防ぐために、同国の国債を買い取り始めたことである。この時ヴェーバー氏は、ECBでの会議でギリシャ国債の買い取りについて真っ向から反対した。ECBは、本来政治から独立していなくてはならない。だがECBが政界の意向を受けて信用格付けの低い国債を買い支えることは、ECBの原則に反する。さらにギリシャが将来借金を返せなくなった場合、ECBが多額の損失を抱える危険もある。

 ヴェーバー氏は、ECBの信用性に傷がつくことを恐れて、国債買い取りを批判したのである。

 しかし当時メルケル首相を初め、各国の政府首脳や通貨政策担当者の中でヴェーバー氏に耳を傾ける者はいなかった。EUは、ギリシャを破綻から救うことを最優先させていたからである。ヴェーバー氏は、辞任の理由について「私は欧州の通貨政策をめぐる議論の中で孤立していた」と語っており、自分の主張が無視されたことが、今回の辞任劇の原因の一つだと指摘している。

 現在欧州にはインフレの兆候がある。インフレは、通貨の価値を低くし市民の購買力を減らす。ヴェーバー氏は、現在ECBの総裁であるトリシェー氏に比べて、ユーロの長期的な信用性と安定性をより重視し、インフレを防ぐ政策を取るものと期待されていた。第一次世界大戦後の超インフレで通貨を破壊された経験を持つドイツ人は、インフレに強い不安を抱く。多くのドイツ市民は、ヴェーバー氏の降板に強く失望しているに違いない。